これまでの旅 フランス、アムステルダム、ブダペスト、大分・竹田へ

<18>【旅物語】~ (下田)~
在来線で揺られながらの旅が好き。

山田耕筰作曲オペラ『黒船』の〔序景〕の“お吉”を演奏する為、下調べに、早朝小田急線に飛び乗った。(小田原→熱海→伊豆急下田)
 降り立った終点『伊豆急下田』の駅舎を一歩外に出ると、眩しいほどの光が目に飛び込んできた。澄んだ空気の中に、群れの蜻蛉が勢い良く飛び交う。

  下田を通った以前の記憶を辿り駅前の広い道を行くと、右手に白い大きな看板。『唐人お吉の墓所・記念館』(宝福寺)
知らず知らず緊張して入ってゆくと、係りの人が指し示す先にお吉の墓。
 あまりに劇的なお吉の人生が、演劇、踊り、そして歌劇…となり、その出演者が多く詣っている。初代水谷八重子、 佐久間良子、草笛光子…etc.殊に水谷八重子は、元々あったお吉の小さな墓を見て、立派な墓を寄贈した。
私も、墓前に手を合わせ、安らかな眠りと演奏の無事を祈る。
 記念館に入ると、ハリスの使ったグラスや胸が裂けそうに哀しい、お吉のボロボロの着物が置いてある。
 またこの寺は、脱藩した坂本龍馬が勝海舟の仲介によって、藩主 山内容堂に詫びを入れ許された会見所でもある。

宝福寺を更に直進して突き当たりにあるのが『了仙寺』。
こちらはペリー上陸後、アメリカ人の接待所として提供された寺で、多くの日本開国、開港の資料が残された博物館もあり、 当時の様子が分かる。
ここにも(!)“お吉”の遺品があり(壊れた三味線、下駄等)、次第にお吉の人物が知れてくる。
この寺を終点に、小さな川沿いが“ペリーロード”と称され、当時の面影そのままに海辺の“ペリー上陸の地”まで、続いている。

ペリーロードを途中左折して進むと、右手に『安直楼』。 僅か二年間のハリスとの時間に、高額な謝礼への嫉妬と偏見による下田中の 人々の蔑みにいたたまれず、一度は京都で芸者となり、やがて再び下田に戻って始めた料亭である。
ずっと公開されていたらしいが、今は持ち主が高齢で病に伏していて、残念ながら見学は叶わなかった。ここにもお吉の遺品が 残されているそうだ。

この情報を教えてくれたのが、“安直楼”隣の『臼井商店』(0558-22-0195)の店主さん。手作りの干物屋さん。
干物が大好きな私は、試しに色々買ってみた。店主のお勧めにより先ず“むろ鯵”勿論“鯵”“金目鯛”“イカの一夜干し” 等々。家に帰っていただいたらその美味しいこと!!店主の手作り自家製!無添加!!。
好きな割りには、アレルギーがあって皮が苦手だったのに、こちらの干物は全部いただけてしまった(@_@)。
これにはビックリ。
人生初!。
以来、“お取り寄せ”。

地魚の定食で昼食を済ませ、“ぺリー上陸記念”碑の横を通りすぎ『下田公園』へ。
6月は“紫陽花祭”。山一面に溢れんばかりの紫陽花。こんなに沢山の紫陽花を見たのも初めて。〔紫陽花の原産国は“日本”。 長崎にいた医師シーボルトはこの花を愛し、帰国の際にこの花を紹介するのに、日本の妻“お滝”さんにちなんで、『オタクサ』 と命名して持ち帰った〕

歩き疲れて道を再び戻り、路地を入った所には“天然温泉”の銭湯『昭和湯』。(上を見上げても煙突が無い!)\360也。
番台のあるレトロな銭湯には、今時のスーパー銭湯の様にシャワーやシャンプー、ボディソープなどは無い。
シンプルな湯槽に溢れるお湯が何より。ザッバ~ンとお湯につかり、ゆっくり出ると体が軽くなり、心も軽く帰路についた。
(2009.07.27)

<17>【旅物語】~ 湯田温泉(山口)~
前回ご紹介した、みすゞの故郷 “仙崎” を訪れた際に泊まったのが『湯田温泉』だった。
ぶらりと街を歩いていると、古い街には珍しい近代的な美しい建物を見かけた。

『中原中也記念館』。

知らずに訪れたこの地は彼の生まれ故郷だった。
折しも2007年は生誕100年の記念イベント中。入場券を買って入ると、紙袋をくれた!中を見れば立派な中也の 写真カレンダーだった。
中では特集番組の取材カメラが入っていた。
ゆっくり館内を巡り、彼の生涯や詩に触れる。…と、人としての生き様と熱情、作品の中の心情、それらが熱く私の胸 に染み込んでゆく。
館を出る頃は、心も頭もすっかり中也の世界に魅了され、高まる気持ちでありながら爽やかな気持ちの私がいた。
(2009.06.23)

<16>【旅物語】~仙崎~
大正から昭和にかけて詩のジャンル“童謡”で活躍し、夭折した女流詩人『金子みすゞ』(本名 テル)。
山口県長門市仙崎が彼女の故郷。

初めて出会ったみすゞの詩は『大漁』。
胸に刺さったのを、今でも忘れない。
(この人は一体どうしてこの様に捉えるのだろう…?)と、詩集を読み、生涯を調べた。
生涯は衝撃的だった。
今の世の中なら何でもない人生が、昭和初期では“時代に翻弄”される。
本屋に生まれ、本好きな娘に育ち、自らも童謡詩を書き、やがて西條八十の元に投稿して認められてゆく。他の人にない視点で 事物を捉え繊細な感情で、眺む。
 自分で結婚相手を決められない当時の結婚。
夫は詩作するのを禁じる一方、女性問題と金銭問題を度々起こす。離婚話が上がった矢先の懐妊。離婚を思いとどまり、 再びの生活。
詩作の禁止を守り、代わりに我が子の発する幼児語を書き留めるのを楽しみに暮らすが、夫から移された病に倒れ、病床に伏す。
命の短さを悟った彼女は、我が子だけは自由な環境で育てたいと、遺言状を書き(当時は経済的理由で父権が強く、 遺言でしか勝てなかった)最後の日(昭和5年3月9日)には、病でなかなか共に過ごせなかった子供と1日中一緒に過ごし、 お風呂に入り、童謡を歌って寝かしつけ、…夜、農薬で服毒自殺する。
まだ27歳だった。

また、彼女の童謡が再評価され全集が出版されたのは、彼女の死後50年以上も経った、昭和59年の事だった。
~~~◇~~~◇~~~


仙崎には、彼女の無邪気で幸せだった幼少の頃過ごした家が復元されている。
彼女自ら綴ったとおり、仙崎の商店街はあり、その通りに金子文具店はある。
入り口を入ると本が並び、二階にはみすゞの部屋がある。
家の奥には、立派な記念館があり、彼女の自筆の資料があり興味深い。

私が訪れた日は、幸いにお天気で、日本海はキラキラと蒼く、陽は商店街を明るく照らしていた。
『みすゞ』が有名になり、仙崎が知られてくると、私の様な観光客が押し寄せ、本来は静な町であろうが、あちらこちらに 『金子みすゞ』をアピールする幟(のぼり)や看板があり、賑々しく、少し…残念だった。
(2009.04.17)

<15>【旅物語】~柳川~
西に仕事に行った帰り、(どうせここまで来てるんだから…!)と念願だった北原白秋の故郷・柳川を訪ねたい!と思い立ち九州に 上陸。

(大分)何度か演奏に呼んでいただいた、別府大学の方に久しぶり(6年振り)にお目にかかった。ご無沙汰にも関わらず、 変わらないお心のこもったおもてなしを受け感激の1日。

(久留米~柳川)大分からは久留米で西鉄に乗換えて柳川を目指す。
久留米は“乗換え”のはずが、こちらがブリジストンのメインタウンで、タイヤに興味がある訳ではないのだが(すいませんm(__)m)、 美術館が東京より素晴らしい!と教えていただき途中下車。石橋文化センターを目指す。
途中、久留米が画家 青木繁と坂本繁二郎の出身地とは知らず、青木繁の生家や坂本繁次郎のアトリエが在ると聞いて、 またまた寄り道。彼等の生涯を知るにつれ、益々その作品に興味が湧く。
石橋文化センターにはその作品の多くが展示されていると聞き、喜び勇んで美術館に。
広々とした敷地の突き当たりに美術館はあり、著名な外国の画家達の作品が並び、別館には上記の日本の画家達の作品が。 いやいや堪能しました。



いよいよ足を柳川に向けて西鉄に乗ることに。大きな街の久留米から柳川まで直通は一時間に2本位。それを待って乗り込みおよそ 20分…着きました。駅前は普通の街。水郷は少し先。まず観光協会に入って今夜の宿を確保。…そして腹ごしらえ!名物の「鰻せい ろ蒸し」(これも観光協会で情報ゲット(^_^)v)いや~美味しい(@_@)。普通のうな重ももちろん美味しいですが、蒸されてタレの充分 染み込んだご飯は、最後の一粒まで美味しかった!

さてさて本筋。ホテルに荷物を置いて、本来の目的“白秋”の生家へ!アクセスは駅前からバス(1時間に1~2本しかない)か、 川下りの船。(まあ乗ってみるか!)とばかり、人数が集まるのを待って船に乗り込む。のんびりとした船頭さんの説明と共に川から 外掘り、そして内掘りへと進む。声自慢らしい船頭さんは時折、白秋の詩に山田耕筰が曲を付けた歌を歌いながら棹を押す。何とも、 のどかな風情。バスで行けば7~8分のところを、75分かけてようやく到着。
そこはまるでタイムカプセルに乗った様な昔ながらの風景が広がる。道を折れ数件先に白秋の生家は有る。大きな造り酒屋で彼は 豊かな環境で育った。ここから多くの詩が生まれ、私達の歌う歌になってきたのだ。“AIYANの歌”にある柳川の言葉(NOSKAI・ONGO・ GONSHAN等)を、この街の風景の中で実感する。
(2007.08.07)

<14>~報告!2003年 夏休暇の旅日記~2
7/27・・・  教え子とバイエルンのケーニッヒ湖へ列車に乗って遠足。『ケーニッヒ』とはドイツ語で「王様」のこと。 南北に長い湖で周囲は切り立った斜面に囲まれ北端から出る船に乗り(岸壁が聳えるところで船員が トランペットを吹いてくれる。音響素晴らしい木霊がメロディそのままに帰ってくる)、途中その岸辺すれ すれに建つバルトロメ僧院で船を降りる。深く、澄んだ水に靴下を脱いで二人して足を差し入れる。辺 りは水面を吹き抜ける風と水の音だけ。神様が下さった至福の時でした。楽しい遠足を終え、生徒は再 びウィーンに元気に戻っていった。


            写真 バルトロメ僧院のほとり
7/28・・・ 再び独りになって残り2日のザルツブルグを惜しむかのように街を散策。帰りたくな~い!シンドローム にかかりブルーになりそう・・・・。友人が電話をくれて翌日の待ち合わせをする。夜は音楽祭のコンサ ートにウィーンフィルのメンバーによる室内楽。モーツァルト絶筆の「レクイエム」を指示に沿って仕上げ た弟子のジスマイヤーの作品、もちろんモーツァルト、他近代の作品。素晴らしいコンサートで心がフカ フカになりました。これが音楽です。

7/29・・・ とうとう最終日!後2週間くらい居たい~!を引きずって残りの時間を噛みしめる。友人の車でマリアプ ライン教会へ。丘の上に立つこの教会は小さいが内部が白と青を基調とした美しい教会だ。こちらのレ ストランの「カイザー・シュマーレン」が美味しい、と連れてきて下さった。「?」ハイ!もの凄く美味しい物 でした。そうですね~、厚手に焼いたパンケーキをかき混ぜた感じです。 街に戻って、取り寄せていただいたドレスをお買いあげ!誰が?もちろん私。このドレスを着るステージ に立とう!と決めて買ってきました。夜は音楽祭のオペラです。R・シュトラウス「クレタ島のヘレナ」ドレ スデンオーケストラ。見事でした。美しいフレージングと声に「誰?」とプログラムを観ると、なんと感動 的、その昔FMラジオやレコードで何て綺麗にモーツァルトのモテットを歌うんだろう・・・と憧れたヘレン ドナートだった。ああ、こんな所で・・・とやっぱり心豊かになりました。
帰宅後、荷造り!!

7/30・・・ 早起きして、早めの朝食を用意していただいて支度。毎回のこと、ハウゲネダーさんと想い出話をしな がら別れを惜しんで泣く。時刻に車で空港まで送っていただき最後の抱擁。独りになりチェックイン、搭 乗手続きは着々と進む。アムステルダム経由で帰る。日本への飛行機の中お隣はバイエルンの青年。 ゲルマン人にしては珍しくも美形(そうなんです。なかなかハンサムがいないのです。)のナイスガイ! ・・・となればこっちも優しくしちゃうよね?!ドイツ語を、しかも バイエルン訛りの挨拶を知っている私と日本の初めての彼は話を始めた。それはそれは楽しくて気が付いたら 日本に着いちゃった。Allesgute と挨拶して出口へ。??凄い報道陣。何?何?空港の職員 に聞くと「水泳の北島が戻ってくるそうです」ひゃ~、ザルツで応援してたんだ。・・・しかし、待ってい ると遅くなる。後ろ髪引かれる思いで帰宅。31日早朝。この夜から私は仕事に戻った。

これで楽しい旅日記のおしまい。書いている内に再び旅心に火が点いた。あ~、行き たい。   (おしまい)
<13>~報告!2003年 夏休暇の旅日記~1
早いもので旅行からもう1ヶ月経ってしまいました。もうすでに、又ヨーロッパの空に憧れている私です。

7/15~7/31 ザルツブルグに休暇滞在しました。マイレージのお陰でピークシーズンにもかかわらずチケットも取れ、無料!至福。

7/15・・・  成田を出発。東風に乗ったそうでアムステルダムに1時間早く到着するとのこと。喜ぶ人もいるでしょうが元々アムステル ダムで4時間待ちの私。待ち時間が1時間増えただけ・・・。機内はガラガラで3人掛けを独り占めして横になって行きました。5時間待って夜9時に ザルツブルグに到着。ペンションのオーナーが 迎えに来てくれることになっている。久しぶりの再会に抱擁中、もう一台車が・・・。友人が 予告無しにやはり迎えに来てくれた。車2台のお迎えに初日からして心温まる~

7/16・・・ 移動の疲れを癒すため、のんびりとザルツブルグの旧市街に挨拶代わりに さ・ん・ぽ!

7/17・・・ 兼ねてからの懸案であったキームゼーに行く。ザルツブルグからミュンヒェンに向かって列車でおよそ1時間のところにある大きな湖。 その中のヘルン・インゼル(男島)にバイエルン王、ルードヴィヒが建てた城がある。彼は幾つも城を造り、未完のまま死んでいる。フランスの ベルサイユを真似ているこの城も、例に漏れず50の内20室しか完成できなかった。豪奢で有ればあるほど、この王は虚しく哀しい。
途中、フラウエン・インゼル(女島)に渡り 再び船で帰る途中、俄に空かき曇り見る見る内に真っ暗。気温がサーッと下がり雷が轟き、突風が吹く。 何とか最寄りの駅に着き、あと10分で列車が来る!と喜んだのも束の間。待てど暮らせど列車は来ない。構内放送耳を傾ける。・・・?よく聞き取れ ない。近くのご婦人に聞いてみる。線路を風でなぎ倒された木が塞いでいて列車が不通だそうだ。いつ走るか見通しがたたない・・・と。オイオイ! 待つしかないのか?まあ、急ぐ旅ではないから良いか・・・てな具合で1時間半。みんな騒ぐこともなくジッと待っていたがそろそろ次の情 報が欲しい。駅員に聞くと振り替えバスが出るという。バス停に行くとバスはあれど誰もいず・・・。乗り込んで待つとドヤドヤと後続の列車から の旅行鞄を抱えた乗客が乗り込んできた。見る見るうちに満員。
鉄道の駅に寄りながらドイツ最後の駅まで来た。そこから一駅でザルツブルグだ。列車を更に待って宿にたどり着いたのは、3時間半遅れの夜10時。
あ~、疲れた!けど、面白かった。 
                 写真 キーム・ゼー(男島)・・・ルードウィヒの城
7/18・・・ ザルツブルグもサマーバーゲン真っ最中。物色三昧の1日。行きつけのドレス屋さんで試着。マリオネット劇場で『真夏の夜の夢』を観る。 この劇場、サウンドオブミュージックの映画に出てくる人形を操っている。人形がオペラやバレー曲を演じる。なかなか見事だ。

7/19・・・ モーツアルテウムの講習に来ている桜丘高校卒業生と待ち合わせ、いざ!ザルツカンマーグートへ。すでにこの【旅】のコーナーでご紹介した ザンクト・ギルゲンから船に乗り、ザンクト・ヴォルフガングで降りシャッフベルクの登山電車へ。頂上からは360度のパノラマ。およそ2 時間、さわやかな風に吹かれてハッと気付く。・・・ウッ、は半袖~!袖をめくるとクッキリと日焼け跡が。心の中(ウヒャ~)、頭の中も 夏休みだったらしい!何でノースリーブにしなかったのか・・・?なんて今更思ったってもう遅い。秋のコンサートシーズン如何にかせん。

写真 シャフベルク登山電車の前にて・・・

7/20・・・

ザルツブルグ在住の友人の案内でバート・ガシュタイン散策へ。列車でイタリア方面におよそ2時間、街の中に滝が流れている温泉地だ。 ここの温泉にはラジウムの入っているそうで医者の処方箋が無いと大変高く付くらしい。山、谷の起伏のあるこの街を郊外に一時間歩くと 由緒有る温泉ホテル。エリザベートもフランツ一世と共に訪れている。湧き水や温泉の源泉を飲んだり自然を満喫。



                 写真 バートガシュタイン・・・街の中の滝
7/21・・・ 連日の遠足にちょっとゆっくり。ヘルブルンの公園に本を持って読書に行く。ヘルブルンは夏の離宮。庭にはたくさんの水の仕掛けがある。

7/22・・・ 再びドイツ国境を跨ぎケーニッヒ湖とマリア・ゲルン教会に出掛ける。連日の晴天の中、山や湖に足が自然と向く。きれいな湖を眺めた跡に、 以前から行ってみたかった教会にバスに乗って出掛ける。およそ30分バスは山を登ってゆく。と視界が開けた途端、ピンク色のかわいい教会が 目の前にポンと現れた。運転手が「ほら、ここだよ。」と教えてくれる。降り立ち帰りのバスのチェック!・・・一時間後。
かわいい教会は、15分も有れば見終わる。隣に小さなレストラン。その庭で丼一杯(そ、そんな大きな物とは知らなんだ!)のジャガイモスープを 食べゆっくりと景色に溶け込んでいた。帰りのバスの運転手さんはもちろん!行きと同じ人。ハロー。

             写真 マリアゲルン教会(ドイツ)
7/23・・・

旧市街を散歩。連日お気に入りのドレス屋さんに通う。世界水泳がバルセロナで行われている。テレビで見るとドイツ選手ばかりを写している。 「!」そうか、ドイツのテレビ局が中継しているんだからドイツ選手ばかりのはずだ!妙に納得。その中で一人の日本人の名をドイツの放送局の アナウンサーが連呼している。世界新を出した北島選手だ。『Ueberrascht!』を繰り返す。心の中でヒャッホー!は私。

7/24・・・ 街の中は26日から始まる音楽祭の準備に忙しい。ついに厳選したドレス2着買いました。ここのドレス屋さんには私の気に入る品がたくさんあります。

7/25・・・ ザルツ在住の友人が「何処に行きたい?」と電話をくれました。車で行く方が便利な、私の大好きなハルシュタットをリクエスト。湖畔建つこの街の 美しさは世界遺産に登録されているほど!キラキラと光る湖面は鏡のように街を映す。亡き友人と以前来た思い出の地でもある。友人とお揃いのTシ ャツを買い、ザンクト・ギルゲンに立ち寄り、フシュル湖のほとりのホテルでハーブティをいただく。夕方ウィーンから声楽の生徒が遊びに来てくれ るので駅に迎えに行く。


        写真 ハルシュタット

7/26・・・

今日はいよいよ音楽祭初日。昨日には前夜祭があったとか。教え子に旧市街を案内した後、一旦部屋に戻って正装に着替える。昨日友人に「正装よね?」 と尋ねたところ即答「もちろんよ!」ザルツブルグで買ったシンプルなドレスで出掛ける。コンサートに入る客は皆正装。それをテレビ局のレポーターが マイクを持って追いかける。オーストリア人には有名な人なのだろう。町の人はそれを遠巻きに観ている。大統領夫妻の登場には皆が拍手する。夏の間は 国の中心がウィーンからここに移動するのだそうだ。演目は、ベルリオーズの大ミサ曲 ウィーンフィル ゲルギエフ指揮。開演5時
コンサート終了した夜7時でも空はまだ明るくドレスアップした人々は街をそぞろ歩いたりレストランで夕食を取ったり。私は教え子二人と共にお茶を飲 んだ。帰ろうとした矢先、向こうの方が賑やか。暇と野次馬根性で見に行けば【ひとり言】に書いたチャールズ皇太子とカミラさんが食事を終えて出て来 るという。ミーハーいいとこ。待ってようか!と言うことになり待つこと30分あまり。出てきました。あまりの人の多さに一寸だけの後ろ姿拝見。


                 写真 音楽祭初日 祝祭劇場にて
(2003.9.21)

<12> ザルツブルグ ザルツカンマーグート (オーストリア) その6
バート・イシュル
ザンクト・ヴォルフガング湖をさらに進むと山に囲まれたバート・イシュルに着く。

「バート」というのは「風呂・温泉」と言う意味。この「バート」と言う言葉が付い ている地名には必ず温泉地がある。日本の温泉は娯楽性が強く、全裸でお風呂に入る 感覚だが、ヨーロッパでは療養の意識が強いのでみんな水着着用。日本の温泉に知ら ずに入ったらさぞや驚くだろう。

さて、そのバート・イシュルもその例に漏れず温泉の街だ。他の温泉と何が違うかと 言えば、ハプスブルク家ご用達の温泉地であること。街の真ん中に川が流れ、小高い 丘にはハプスブルク家の瀟洒な猟の館がある。夫フランツと共に訪れたエリザベート (シシィ)は美容のためにここで過ごしていたという。この家の中はガイド付きで見 学できる。仮で討ち取った獲物の剥製の他に、シシィが暗殺されたとき身につけてい た衣装や写真、そのニュースを伝える記事なども展示されている。

穏やかなときの流れるこの街は音楽家にも愛されブラームス、ヨハン・シュトラウス なども別荘を持っていて互いに交流があったそうだ。オペレッタ「メリー・ウィド ウ」の作曲家であるレハールは生きているうちに名声を博し、晩年を過ごしたの見事 な館は川のほとりに今もある。入場料を払うとガイド付きで案内してくれる。(私が 行ったときは私ひとりだけだった!)プレゼントされたシュタインウェイのピアノ、 螺鈿細工のテーブル、聖母マリアの七宝焼き・・・これなどは世界に3つあり、一つ はバチカン、一つはイギリス王室、そしてレハール・・・。彼がどんなに人々に愛さ れたのかが圧倒された品々で分かる。交流のあったプッチーニからの書簡も展示され ていた。機会があったら是非立ち寄っていただきたい。

<11> ザルツブルグ ザルツカンマーグート (オーストリア) その5
ザルツブルグの奥座敷。美しい湖がたくさん有るところです。
遠くにアルプスが見える晴れの日にはキラキラと水面が輝きそれは美しいところで す。
    

   写真 ホテル「白馬亭」にて

☆フシュル湖
ミラベル宮殿前のバス停からポストバス(郵便局が運営しているバス。国鉄バスのよ うな物)でおよそ30分。始めの湖が左手に見えてくる。湖畔には昔の館が立ってい る。今はホテルとして私達も訪れることが出来る。
よくザルツブルグ在住の知人とここまでお茶を飲みに来る。湖畔のバルコニーでの風 景と小鳥のさえずりの中、それは極上の時間。


☆ヴォルフガング湖
更に30分ほどバスで進むと次に大きな湖が現れる。
バスを降りてすぐの町がザンクト・ギルゲン、モーツァルトのお母さんの生地、姉の ナンネルの嫁ぎ先。偶然にもこの二人は時空を超えて同じ建物で暮らした。旧市庁舎 前にはバイオリンを持つ子供のモーツァルト像が噴水に立つ。天気の良い日、山側の ロープウェイに乗って頂上まで行くとオーストリアアルプスの絶景が見られる。


写真(左) ザンクトギルゲン旧市庁舎 モーツァルト少年像



              写真(右)モーツァルトの母の生家。後、姉、ナンネルが嫁いで住んだ家

湖畔に着くと船着き場があり、対岸のザンクト・ヴォルフガング、この湖一の大きな 街に渡ることが出来る。オペレッタのモデルになった『白馬亭』という由緒のある宿 があり、歴史的教会がある。

山側に歩くと季節限定の赤いかわいい登山電車の駅に着く。サウンドオブ・ミュー ジックのドレミの歌のシーンで出てくる登山電車がこれ。頂上はかなり寒く、片側は 絶壁。360度の美しいパノラマが見渡せる。(つづく)



                            写真 ヴォルフガング湖にて


(2003.3.29)

<10> ザルツブルグ(オーストリア)   その4
カラヤン!

 ご存知の方も多くいらっしゃるでしょうが、ヘルベルト・フォン・カラヤンはここ ザルツブルグで生まれました。
新市街と旧市街の間に流れるザルツァッハ川に架かる橋の中でも、最も旧市街が美し く見えるマカルト小橋のほとり(新市街側)に彼の生まれた家があります。建物の2 階部分だそうで、入り口の上方にプレートがあります。
彼の活躍は皆さんの知るとおり、ベルリン・フィルの音楽監督でした。
 1960年に祝祭劇場が完成し、1967年からのイースター音楽祭(復活祭期間 に行われる)には、ベルリン・フィルを引き連れてやって来た。コンサートオーケス トラのベルリン・フィルがオペラの伴奏としてオーケストラ・ピットに入るのはこの 時だけであり当時より話題を呼んだものです。
 カラヤンが亡くなったあと、祝祭劇場の横の広場はカラヤン・プラッツ(広場)と 呼ばれるようになりました。
 今カラヤンは、存命中に暮らしていたザルツブルグの隣の町、アーニフの小さな教 会にひっそりと静かに眠っています。最近、お墓参りに訪れました。生きているとき には決して近づけなかった彼のお墓が目の前にありました。
   ☆          ☆          ☆         ☆
おまけ・・・・
 ウィーンのハイドン博物館で、大学時代に教えていただいた先生に偶然会ったこと がありました。私も先生もザルツブルグ行きの特急を待っていました。私がご挨拶し たことからステキな旅が始まりました。
先生と一緒にコンパートメントで3時間、音楽の話をして下さいました。グルックの 『オルフェオ』の話、ブルックナーのオルガンの話、指揮者のアッバードの話・・・ あの子も良くなってきたね~!なんて。指揮者ベームはお煎餅が大好きだったんだ よ。そして、今日はね、カラヤンからの招待で音楽祭に行くんですよ。・・・とにっ こり。
 私達にとって、カラヤンやベームは神様のような存在。その人から招待状が来る日 本人っているのぉ?と本気で驚きました。
 ザルツブルグについて、「何処に泊まっているの?今晩は一緒に食事をしましょ う」と言って下さり、夕方待ち合わせをして由緒あるレストランに連れていって下さ いました。土地のお料理を御馳走になり、「あのね、ボクの宿の主人がね、生徒が来 ているのなら連れてこいと言っているから明日はこっちの宿にいらっしゃい。明日も ボクが案内してあげるよ。」
 さて翌日、いくらするのか分からないまま先生のお宿に移り(何と、ウィーン国立 オペラハウスの合唱指導者は泊まっている、演出家はいる、日本からはNHkの方た ちはいる、そして部屋に果物まであった!)、市内観光。「あのね、今日は明日の初 日に控えてカラヤンがリハーサルしているけれど聴きたい?」 私「で、でもカラヤ ンってリハーサル見られるの嫌いですよね?」「ボクね、友達だから平気、行く?」 「ハイ、ハイ、ハイ・・・・」何度言ったことか!カラヤンはリハーサルを聴かれる のが嫌い、カラヤンのボディーガードは元警察官の大男。こんな事は日本の音楽雑誌 にだって書いてあること!果たして、楽屋口に行くとその大きな男の人が立ってい る。私は緊張に緊張!なのににこやかに先生は挨拶を交わしている。そして、すんな りと入れていただきステージの裏に入るや、レコードやテレビ、ラジオでしか聴いた ことの無かったあのベルリン・フィルの響きが耳に飛び込んで来るではないですか! その音に紛れて男の人の話し声、ちょっと嗄れたあのカラヤンの声が!胸の鼓動がカ ラヤンに聞こえてしまうのではないかと思うほどの静けさの中で粛々とリハーサルは 進んでいきました。夢のような時間でした。
次の晩、先生は初日のためにタキシードにマント、シルクハットの正装でさっそうと おでかけになりました。
翌朝私はウィーンへ帰る日、お宿代を聞いても「ボク払ったこと無いから分からない よ。」ハア~?結局、「宿の主人がね、おまえの生徒ならいらないそうだよ」エ~! 先生は駅まで送って下さり、列車が出発すると「日本に戻ったらしっかり勉強するん だよ」と一言声をかけて下さいました。胸の熱くなる言葉でした。
写真 ザルツブルグ 祝祭劇場にて (2003.1.14)

<9> ザルツブルグ(オーストリア)   その3
ゲトライデ・ガッセ(ガッセ=通り)

ザルツブルグの旧市街はとても小さい。一周しても20分位。ザルツァッハ川に沿っ て一番近い通りが有名なゲトライデ・ガッセ。ブランドのお店、お土産屋、チョコ レートの店がズラーッと並ぶ。モーツァルトが洗礼を受けた大聖堂の横にある広場か らモーツァルト広場へ行き、もう一つの通りを歩くとそこが、ゲトライデ・ガッセ だ。通りを見上げると装飾が見事な美しい看板がぶらさがっている。クロワッサンの 形の看板はもちろんパン屋さん、鍵の形は鍛冶屋さん、馬蹄は馬具屋さん・・・等。 南から北から外国人が逗留する国境の宿場町ゆえ、言葉が通じなくてもお店が分かる ように看板を見れば見分けられるようになっている。今なんてその看板の中にマクド ナルドの『M』までぶら下がっている!
両側にあるお店を覗きながら進むと黄色い建物が左手にある。ここがモーツァルトの 生まれた家。建物は当時のオリジナル。台所の様子が偲ばれます。訪れるたび室内の 展示が変わっている。始めの頃には、幼少時代に使っていたバイオリン、絵画に描か れている指輪、そしてロケットに入れられた毛髪(当時は身分の上の人に挨拶すると き、目前で髪を切って手渡すことがあった)、ピアノ、初演当時のオペラの舞台模型 等も。モーツァルトが実在したということをここで実感したとき、鳥肌が立ったのを 今でも覚えている。
その通りを更に進み、突き当たり寸前を左手路地に入ったところの古くからやってい るインビスの『BOSUNA(ボスナ)』(東欧のホットドッグ)は格別美味しい!こ れを食べながら街を歩くのが私流のザルツブルグ散策術?!
(2003.1.5)

<8> ザルツブルグ(オーストリア)   その2

  『ひとり言』のコーナーでザルツブルグのクリスマスを、『歌物語』で「きよし この夜」を、そしてこのコーナーで旅の紹介を始めた。私にとっては第2のふるさと となったザルツブルグ。そこから、クリスマスカードが届いた。
私が定宿にしているペンションのファミリーからだ。
ザルツブルグで休暇を取りだしてから早や7年になる。1年に2~3回行っていたか ら、もう10回以上になるかな?
始めは日本のガイドブックの中から宿を選んだが、現地で知り合った友人に紹介され て以来ずっとこの宿に泊まっている。日本の人はきっとこういう宿はご存知ないだろ う。
民宿のように家の部屋を貸してくれる。オーナーは午前中に現れ、朝食の支度をして ベットメイクをしてくれる。朝食は美味しいパンとハム、ゆで卵、飲み物。家の鍵と 部屋の鍵をくれる。
宿代は信じられない安さだ。25ユーロ、¥3000しない。家庭的な明るい働き者 のオーナーと親しくなってからはよくおしゃべりをするようになり、今や親戚のよう だ。このファミリーの暖かさに惹かれてザルツブルグの休暇へと心が動く。よかった らこのペンションお使い下さい。Michikoから聞いた、と言うときっと親切に してくれるでしょう。

       Frau G.Haugeneder
       Muenchiner Bundesu str.33
       A-5020 ZALZBURG
       AUSTRIA
       TEL 0043-662-435499・430090
          写真 ペンションの朝食 Frau Haugeneder と   (2002.12.29)


<8> ザルツブルグ(オーストリア)   その1
私を知っている方はこのコーナーに「どうしてザルツブルグを書かないの?」と聞い てくださいます。・・・どうしてだろう?あまりに知りすぎて文章にならないので しょうか・・・。でも、【歌物語】のコーナーで「きよしこの夜」のお話をしたので そろそろ書こうかな・・・と思うようになりました。どの位の長さになるのか分かり ませんがお話ししましょう。

ザルツブルグと聞いて皆さんは何を思い浮かべますでしょうか?きっと「知らない !」とおっしゃる方もおられるでしょう。では、ミュージカル「サウンド・オブ・ ミュージック」はご存知ですか?現地の方に言わせると、「アメリカ人と日本人が騒 いでいるだけ」だそうですが、あのスクリーンいっぱいに広がった景色全てがザルツ ブルグとその近郊です。
そして、そして我が最愛のモーツアルト!が生まれた街です。
この地はキリスト教会支配地だったので、旧市街はたくさんの教会が建っています。 祝日の朝、その教会の鐘が一斉に鳴ったときの荘厳さは筆舌に著せません。
ドイツとの国境の町であり、イタリアからアルプスを越える道筋にあたる貿易の中間 点として栄えました。街のあちこちに、馬の像、馬の形の噴水、そして馬の水飲み 場、足洗い場もあります。貿易の荷物を運ぶ重要な動物だったからです。その所為で 外貨の豊かだったこの街はとても美しい姿をしています。地震など当然無いのですか ら建築年が1400年代のものもあります。1500年代にやっていたパン屋の店先 も残っています。『トマセルリ』と言うカフェはモーツアルトの時代から同じ所に あってやっていました。モーツアルトもパパのレオポルトも来店してコーヒーを飲ん だかと思うと凄いです。
この美しい町並みはユニセフの世界遺産に街ごと指定されています。    つづく
 写真 冬のザルツブルグ(2002.12.23)

過去分 フランス、アムステルダム、ブダペスト、大分・竹田へ


HOME演奏スケジュール演奏後記レッスン情報プロフィール唄・詩ひとつの物語プリマドンナ?のひとり言