過去分 フランス、アムステルダム、ブダペスト、大分・竹田 <7> パリ (フランス) 私がいたとき、な、なんとルーブル美術館もオルセー美術館もストでした。押し寄 せる観光客を尻目に中では職員がウロウロ。・・・まったくラテン人気質そのもの。 オランジェリー美術館は改装中。言葉もない。お見事! どうしても行きたかったロダン美術館だけは訪れることが出来た。 彼は周知の通り世界的な彫刻家で、その作品は事有る度に目に触れることが出来る。 この美術館の一室に展示されているカミーユ・クローデルの作品が私は見たかった。 女性ながら早くから才能に目覚めロダンに師事し、その若さと美貌ゆえに彼の愛人と なって彼の作品を手伝いながら自分の作品を制作した。作風があまりにもロダンに酷 似し、女性であり愛人である彼女の作品はなかなか評価されず、揚げ句に殆ど彼女が 仕上げた作品がロダンの作品として世に出てゆく。その苦しみと共に、昔の女の元に 行くロダンへの不毛の愛が彼女を破壊し、次第に神経を病んでいく。正常と狂気の狭 間で彼女は自身の作品を壊してしまう。見かねた家族は彼女を生涯精神病院に入れてしま う。 ・・・数少ない彼女の作品がある。ロダンへの純粋な愛を感じる作品だ。 おまけ 「パリ」という街の名の由縁をご存じか? 北、ブルターニュの海に“イス”という都が沈んでいる。5世紀の頃、イスの 繁栄は他に肩を並べるものはなかった。それを羨んだフランスの都リュテス(ケルト 語)の民は「イスに匹敵する・・Par Is」と言うブルトン語を採用した。 ドビュッシーのピアノ曲「沈める寺」と言うタイトルは、この海に沈んだ都の大聖堂 の鐘の音が聞こえる・・・という言い伝えから付けられているといわれる。 (2002.11.4) <6> パリ (フランス) ヴェルサイユ 地下鉄を終点まで乗り、地上にあがるとヴェルサイユ行きの路線バスが出ている。 それに乗って約20分でヴェルサイユ宮殿に着く。回数券2枚で行かれる、およそ5 00円也。木々の鬱蒼とした広い道の正面にそれは燦然と聳えている。 太陽王と呼ばれたルイ14世の建造物。現在のクラシック・バレエの発祥はこの太陽 王のダンス好きと言われている。彼は太陽の役を踊るのがお好きだったそう。(当時 のストーリーは神話などから取られている)・・・それで、あだ名が“太陽王”。な んとも可愛い理由です。 私がフランス・パリを認識したのは高校2年。漫画の『ヴェルサイユのバラ』 とても事実だったとは思えない宮廷生活。フランス革命へ向かってゆく、庶民と貴族 達の生き様。マリー・アントワネットとフェルゼン、オスカルとアンドレイの二組。 この世界に魅了されていたのは私だけではあるまい。私は、アンドレイが大好きだっ た。・・・が、オスカルとアンドレイは実在しない。 アントワネットのカップルは真実。彼らが逢い引きした東屋が庭にある。このとて つもなく広い庭のそこに、どうやって人目を忍んで会いに行ったのだろう。その先 に、アントワネットが作った小綺麗な農家が数件建つ。退屈しのぎのマイ・劇場も庭 のはずれにある。作りは小さいがオペラハウスそのもので贅を尽くした物だ。 広い庭は各建物の所に乗り場のある電気バスに乗って回ることができる。 宮殿内はもう皆さん写真でご存じの通り。1階にはアントワネットを始めとする妃の 住居があり、2階には公式の部屋、王の部屋など。見学の途中、バルコニーがあっ た。案内のヘッドホーン曰く、革命時、パリ市民がパリがらヴェルサイユまで抗議行 進し、「王と妃を出せ」と大騒ぎになったとき、覚悟を決めたアントワネットが出て いってそれはそれは優雅に民衆にお辞儀をしたそうだ。市民はそれを見て「フランス 王、バンザイ」といって暴動が収まったと言われる。そのバルコニーに立つと、民衆の 声が聞こえるような気がする。 おまけ・・・アントワネットのピアノの先生は有名な作曲家、グルック。お輿入れに 同伴し、アントワネットに擁護されて幸せに暮らしました。 ・・・クロワッサンというと、フランスのパンと思うでしょう?元々は、食 事が合わなかったらアントワネットが気の毒と連れてこられたオー ストリアのパン職人が作ったのが最初です。 ・・・アントワネットの死後、フェルゼンはスウェーデンに戻り冷酷な軍人 になりました。 [写真 ベルサイユ宮殿にて] (2002.10.20) <5> パリ (フランス) パリは恐ろしい!と聞いていたので一人では行く勇気がなく、以外や今まで行ってい なかった。昨年友人が行くと聞いて、シャルルドゴール空港で待ち合わせてもらっ た。街に出てみれば何のこともない、他の街と変わらない。友人振り切って、一人遊 びはお得意です。 モンマルトル 地下鉄を出て階段を昇ると、小高い丘にそびえる姿の美しいサン・クレール教会。 そこから坂道を下るとユトリロが描いた路地。酒場ラパン・アジル。ルノアール、ド ガ、ロートレック、そしてモディリアーニ、並みいる天才画家達が生きていた証がそ こここに。作曲家 エリック・サティの住んだ家も。その石畳を一足ごとに踏みしめ ること自体が宝物の様な気さえする。 今でも画家のいる広場。今は観光客目当ての怪しい画家がいる。私も声をかけられ た。 「ちょっと、2〜3分ボクにつきあって・・・」と。私の絵を描いている。出来上が るのには10分はかかった。揚げ句売りつけた。「いらない!」と言うと「ボクが仕 事をしたのにそれに対して支払わない気か」と脅すけど、「いらない!」ともう一度 断わり歩き出した。大概の日本人は買ってしまうのでしょう、しかも法外な値段で・ ・・。画家の態度で分かります。 この丘の墓地にどうしても参りたいお墓があった。マリー・デュプレシス(アルフォンシーヌ・プレシス)の。 住宅のように番地の着いた墓地の中、その数字を捜して歩く。薄く、淡いオレンジが かったピンクの大理石の墓石。彼女のものだった。そう、彼女こそ『椿姫』のモデル になったひと・・・。 18〜19歳からなくなる23歳まで、彼女は社交界の花形だった。華奢な美しい人 だったそうだ。リストも彼女に憧れ、そして原作者のデュマももちろん。その恋物語 が私小説として書かれたのが『椿姫』。彼女は椿の花でなくアカシアの花を、常に身 につけていたという。多くの男性を魅了しただけでなく、女性からも憧れだった。彼 女が亡くなったのち、彼女の持ち物が競売にかけられた。女性達は争うように買って いった。絹のストッキングなど、片方ずつ別の女性が買っていったそうだ。 その彼女がここに眠る。 (つづく) [写真 マリー・デュプレシスの墓前で] (2002.10.13) <4> アムステルダム(オランダ) 旅とも観光とも言えないアムステルダム滞在の話です。 ドイツ、フランス、オーストリアなどに行くとき日本からアムステルダムで乗り換え ることが多く、 飛行機の窓から運河に囲まれた美しい町並みをいつも眺めるばかりだった。いつの日 か、この街に降り立ちたいと思っていた。 去年、ポーランドの帰り、日本行きの飛行機に乗るまで6時間の待ち時間があった。 一人だったらそのまま空港で死ぬほど退屈な6時間を過ごしただろうが、この時、語 学研修帰りの友達とワルシャワで落ち合っていた。 「どうする?」「出ちゃおうか?!」の一言でオランダ入国。途中下車って訳。 有名な国立美術館に行こうということになった。空港でオランダ貨幣ギルダに換金。 (いまはユーロ) 空港から市中は少しある。列車の切符の買い方も乗り方もわからず、時間ばかりか かってしまう。着いたら1時間以上かかっていた。(本当は20分ぐらい)全てがオ ランダ語。ドイツ語に似てはいるが理解不可能。トラム(市電)で行くのには理解す るのにまた時間がかかる。タクシーに乗って目的の美術館へ。(タクシーの運転手さ んはいい人で、事情を知ってずっとガイドしながら運転してくれました。本当に綺麗 な町並みです。) いよいよ憧れの地に立つ。私には聖地である。観光客で入り口は行列。 自然光溢れる明るい室内のつき当たりに、大きな、大きなレンブラントの「夜警」。 夜の暗さの中に射す光が、当たり前の様に描かれたその見事さに驚いてしまった。 私はオランダ絵画が好きでよく見る。ウ゛ァン・ダイク、レンブラント、そしてフェ ルメール。 フェルメールは生涯で34〜35の作品しか発見されていない。その作品は端正であ りながら不思議がある。「静寂の絵画」と言われるようにこの絵の中には音がない。 数少ない彼の作品を見ることが出来るチャンスは少ない。(昨年大阪に7作品ほど来 ていたようですね)憧れにも似た気持ちで対面した・・・・。 ゆっくりと2時間ほど観ていた。 夢から覚めたように、現実。さぁ、戻るゾー!再びタクシーに乗り、最寄り駅に着き 列車で空港へ。 無事、機中の人となりました。 途中下車、わずか3時間の滞在、やってしまいました。今度はゆっくり訪れよう。レ ンブラントの生家、アンネ・フランクの隠れ家、他の美術館など、行きたいところは たくさんある! ・・・おまけ ポーランド帰りの我々は、金銭感覚が狂っていた。僅か5000円程度しか換金しな かった。お陰で大騒ぎ。切符のお金(片道600円程)。タクシーはカード対応の車 を捜し、美術館の入場料も(1300円程度)カード。それでも足りずホテルに飛び 込んで換金。汗かきっぱなしでした。 (2002.9.22) <3> ブダペスト(ハンガリー) ハンガリーに行ったら食べたいものがあった。20世紀初頭まで、オーストリア帝国 の一部だったのだから当然オーストリアでも食べられるし、実際食べていたのだが、 本場で食べたかった。グーラッシュと言う料理。 牛肉を煮込んだシチューのようなもの。 友人がレストランで注文してくれた。お皿で注文、ではなくみんなで取り分ける多い 方。 「存分に食べなよ」といわれ、ぜーんぶ食べてしまいました。おいしかった。友人は 巨大マッシュルーム(椎茸のよう)のフライ。塩味強めでこれも美味。このマッシュ ルームは、ロシアの原発事故以来の突然変異と言う噂も・・。でも定かではない。ハ ンガリーはパプリカの産地。何にでも使う。何にでも合う。 ごちそうさま! 何度もヨーロッパに出掛けているが、この時初めて怖い思いをした。 美術館に行こうと地下鉄に乗った。言葉が解らないので、日頃決してしない(!)ガ イドブックを手にインフォメーションに尋ねていた。その時「うるさい若者がいる」 と思っていた。地下鉄に乗ったらその仲間が増え6人。大して混んでもいないのに固 まっていた。これは怪しい・・・。スリに違いなかった。私を取り囲む。別のドアへ 移動するとまた、ドーッと奴らも移動。その内、くろいマニキュアの女の手が私の バックに入る。(このバックには辞書と、地図しか入っていない)その手!私はムン ズと掴んでしまった。6人がシーンとした。周りで様子を見ていた乗客もシーン。私 のでっかい一声が「ノー!」・・・さて、この手をどうしよう。そのまま警察に行く か?でも、ナイフを持ってたら刺されちゃうしなぁ・・・。次の駅が降りる駅。若者 の独りが「こいつは、コートの中のバックに金持ってて、これにはないぞ」と言って いる。「そう!この中。」と言うや、脱兎の如く降り、階段かけ昇り美術館目指して 走り込む。追いかけてきた奴らも美術館に入ったのを見てあきらめた。 友人のハンガリー人のマネージャー、「ごめんなさい」。いいえ、ハンガリーの所為 ではありません。 やっぱり、“歩きながらのガイドブック”は危険です。バックはコートの中にいれま しょう。大きな声で「ノー」といいましょう。友人のオペレッタの稽古を見せていた だき、翌日無事にウィーンから帰国したのだった。 (おわり) <2> ブダペスト(ハンガリー) 今、東欧は洪水で美しい街が浸水し、今日のニュースでブダペストの風景が放映され た。 ハンガリーは、大平原地に行ったわけでもなく、ただブダペストに2泊3日の滞在。 数年前のお正月、ブダペストに稽古で来ていた友人に誘われ、滞在していたザルツブ ルクから直通の特急列車に乗って訪ねていった。およそ6時間半、ウィーンを経由し ていく。途中国境を越える。・・・!何が変わったって、車内放送。それまでは、ド イツ語と英語で合わせて50パーセント理解していたものが、何とドイツ語とマ ジャール語になってしまった。車窓からの風景も変わってゆく。木々、建物。本当に いつも地続きの国境に不思議な感覚を持つ。 列車の中に、銀行の両替係がやってきて両替してくれる。ハンガリーのお金はフォリ ント。物価がわからず、一体いくら変えて良いのかわからない。とりあえず3万円。 団扇に使えそうな大きいお金でした。 いい友人だが“東駅に着くから。”とだけ。、降りたって解った。確かに東駅。でも ここは一体何処なのよ〜!ホームには“タクシー、タクシー”という、呼び込みがワ ンサといる。大きいスーツケースを持った私はいいターゲット。しかし、みんな怖い 人に思えちゃう。断っているうちにサーっと人が退いてしまって誰もいなくなった。 さてどうしよう。・・・やっぱりタクシーか?バッカみたい。重たい荷物持ってウロ ウロ。ガイドブックにあった国営のタクシーバス(こんな良い物がある)の事務所を 探し、乗せてもらってやっとホテルに到着。もうグッタリ。 その晩、友人のホテルに訪問、くさり橋の夜景がきれいでした。 翌日、ブダは王宮地区、ペストは旧市街を歩く。でもこれはガイドブックに載ってい るので省略です。 リスト記念館を訪問。音楽院校長時代の住居だったところ。ベートーベンが使ってい たピアノがあった。このピアノはどんな時間を超えてリストの元に来たのだろうと思 うと感慨深かった。入場料はない。寄付だけだ。1000フォリント入れたら貰いす ぎだと言われたが、日本で音楽をやっているからと、受け取ってもらうことにした。 <1> 大分・竹田 今回は、《唄・詩、ひとつの旅》に続いて、大分・竹田にしてみよう。 『荒城の月』の曲に触れるとサー..と浮かぶ風景がある。七年前、某マネージメントの依頼を受け、 別府大学短期大学大分キャンパス主催で、学内音楽堂にてコンサートをするため、初めて大分に 行った。飛行機で行けば、国内大概の所に1時間強で行かれる。羽田から大分へも同様。あっと いう間。海沿いの空港まだ、実感も無いのだから、「この向こうは四国です」と言われても・・・。 大分は、西洋音楽の発祥地。市役所前の通りには宣教師と街の人の像がある。以来、二年に一度、 大学で歌わせていただいている。今年10月5日が、4回目となる。初めての年は、演奏の後、湯布院に。 次の折、念願の竹田に行くことができた。どんな所かは想像もつかず、ただただ、竹田に行ってみたかった。 大分駅より列車で行くこともできるが、車で向かった。少しずつ登り坂になり、緑美しい山々の中を走る。 1時間も走った頃、ポンと白い色の景色が変わった。竹田に着いたのだ。昔ながらの家と街並みの残る 閑静な街だった。街の真ん中のホテル”Y”に荷物を解き、街を歩く。瀧廉太郎の記念館。「いぬの おまわりさん」などの詩で有名な佐藤義美の記念館。そしてオペラ「蝶々夫人」のモデルの「伊豆のお菊さん」 の更なるモデルが竹田に居ました。 最後に胸をときめかせて登った岡城。その広さも想像以上、そして、そこから見る風景。 たたずむ瀧廉太郎の像。心に刻まれるとはこのことでした。 以来、おととしも訪れ、今回も訪ねようと思っている。瀧廉太郎記念館では、おととし、彼の曲を 誰も居ない時を見計らって歌わせてもらった。何も言えない感覚。わずか、2年半しか住まなかった はずの彼の家だが、でもそこに彼の心が有るような気がした。 [写真 瀧 廉太郎住居(現在 記念館)] |